そんな凡庸な子供時代も、相撲に向き合う姿勢だけは人一倍だった。
引いて勝つ癖をつけぬためにも「負けてもいいから前に出る」という指導を徹底してきた。

   教室の森山昇監督(当時)は「(助言を)愚直に守ろうとしていた」と振り返る。
土俵を離れれば相撲雑誌を読みふけり、アマや学生力士の名前もそらんじる相撲博士だった。

   中高一貫指導の能生中、海洋高(新潟県)に進学。
相撲どころの石川県を離れる選択は「裏切り者とまで言われた」と知幸さん。

   しかし、このときには相撲に人生を懸ける覚悟が決まっていた。
同中学の稽古に体験参加し、猛練習で地力をつける指導にひかれていた。

   県立海洋高は角界に多くの力士を輩出する埼玉栄や鳥取城北のようなエリート集団ではない。
「全国大会で予選を通るかどうかという選手ばかり。

   勝つために稽古量を積まなければいけなかった」と相撲部の村山大洋監督は話す。
目の前の1勝を得るテクニックよりも根本の押す力、技術を重視した稽古が破格の馬力につながる礎になった。

       (  日経  スポーツ より  横綱 大の里誕生 )