「私、小さくなっていない?」

てっきり体の様子を聞かれたのかと思ったが、違った。
「五輪も変わるけど世の中も変わる。外の世界を知れば、自分の小ささが分かります。
私もね、久しぶりに外に出て思うのですよ。自分は大丈夫かなって」

そうだ。こういう器の大きな人だからこそ、会いたかったのだ。
パンデミック(世界的大流行)のさなかの祭典についてどう思うか、聞いておきたかった。

延期決定以降、アスリートからお決まりの言葉ではなく、本音を聞くのはとても難しくなった。
開催の賛否を口にすれば、その余波に巻き込まれるからだ。多くの選手が実名での取材に口をつぐんだ。
あるオリンピアンにインタビューを求めたら、その後一切の連絡を絶たれた。理解はできる。
だが、この祭典はあなたたちのものではないのか。

だからこそ、真っすぐで自らの経験に裏打ちされた池田さんの言葉は心に響いた。
国民的な熱狂を呼び起こした前回の東京五輪を知るだけに。
半世紀以上を経て再び開催される五輪への見方は厳しかった。
単なるイベントにしか映らなかったという聖火リレーを見て「今回の五輪は弱いなと思いました」と語り。
五輪の価値について問うと声の調子が一段と高くなった。

「国民が本当にもう一回やろうと、やる値打ちがあると思っていたのでしょうか。
復興も後から付けたものでしょ? コロナに勝ったなんていうのもやめてほしい。これからでしょ。
私たちがコロナに試されるのは」

気づけば、話は3時間以上に及んだ。
改めて取材ノートを読み返すと、池田さんの人となりがよく分かる言葉が見つかった。

「人に感動を与えるのは生き様だよ」

池田さんの歩みがそうだった。瀬戸内海に浮かぶ佐木島(現在の広島県三原市)に生まれた。
終戦の年、原爆の後遺症で父を亡くした。体操競技と出合ったのは高校時代と遅かったが。
運動能力の高さと負けん気の強さで頭角を現した。
20歳で初出場した世界選手権(ローマ)の平均台で金メダルに輝いた。
日本の女子選手で初の快挙だった。

語り草なのは64年東京五輪。小野清子さん(故人)とともに2児の母として出場した。
跳び箱を裏返しにして揺りかご代わりにしながら練習に参加したという逸話は有名だ。

ただ、その前年、妊娠を告げると関係者は困惑を隠さなかった。メダルを期待されていたからだ。
自著「人生、逆立ち・宙返り」(小学館)には、体操協会幹部への言葉としてこうある。

「私、産みます。子どもを授かったら、産むのが当たり前ですから。
(中略)メダルはとります。かならずとります。子どもも産みます」

現役引退後、全日本ジュニア体操クラブ連盟を創設。選手育成に力を注いだ。
記者が直接知るのは八十路(やそじ)の池田さんだが。
コロナ前は競技会場などで体操について熱く語る姿をよく見かけた。
信じる道を貫き、最後まで「教育者」であり続けた人だった。
( 毎日新聞 【田原和宏】 より )