東日本大震災と記憶

生活
  今日もいい天気。
昨日の気温で、桜の開花予想が、少し早くなりました、大阪は26日とのこと。
    東日本大震災と記憶
  東日本大震災が起きてから11年、あの日も金曜日でした。
  私は伊丹で仕事をしていました、午後、グラッと来て。
これはどこかで大きな地震が起きたのだなと、直感的に思いました。
東北で、しかもそれから、ものすごい津波が押し寄せたとは、思いもよりませんでした。
  実家は、関東なので、すぐ電話するにもつながらず、翌日位に話ができました。
  1か月ぐらいしてから、実家に行きました。
近くの神社の、鳥居は倒れ、墓地の墓石もほとんど倒れていました。
  翌年の6月、会社でボランティアにいくということ名目で、東北に行きました。
東京まで新幹線、それからはバスを連ねて・・・。
  福島の磐城で1泊、それから石巻・南三陸町、そこて少し” がれきの撤去のボランティア ” 。
南三陸町の鉄骨だけになった庁舎は、やはり何とも言えない気持ちになりました。
防災無線の女の子の声が聞こえてくるような感じでした。
  被災者を、受け入れたというホテルに泊まり、仙台から飛行機で戻ってきました。
  
  自然災害、そして戦争もそうですが、理不尽という言葉以外に、表現がありません。
  昭和60年代前後は、しきりに ” 静岡県沖で地震が起こるだろう ” ということで。
その時に、とるべき行動はどうあるべきか、というシュミレーションがなされていました。
  しかし、実際に起きたのは、阪神淡路や三陸沖。
  自然災害は人知を超えるところで起きるようです。
いつも心して生活をせねば、と思います。
  亡くなられた方の、ご冥福をお祈りいたします。
   心に残る言葉 March   ⑪
   ” 人生を並走してくれるもうひとりの自分 ”

  30歳の僕は、会社で働きながら悶々としていた。
体力はあって、仕事も充実していて不平や不満もなかった。
このまま仕事を何事もなくこなしていけば同じ会社で。
定年まで働けるといううっすらとした未来図も見えていた。

  だが、不安もあった。
「このまま平凡な会社員のまま終わっていいのか」という不安と。
「何かに挑戦してうまくいってもいかなくても。
結局死ぬまで働くことには変わらない」という軽い絶望感にとらわれていた。

  それから20年近くたったいまでも変わらず僕は働いている。
それは会社員として働く自分の他に。
書くことを通じてもう一人のブロガー・作家としての自分を見つけられたからだ。
それぞれが僕の中で支えあってきたからこそ今でも働けているのだ。

  書くことをテーマにこの文章は書かれているけれど、きっかけは何でもいい。
今の自分を支えてくれる、人生を並走してくれるもうひとりの自分を見つけよう。
書くことがいちばん近道である。
  ( プレジデント オンライン フミコフミオ より )

 

   生活雑感   March  ⑪
  昨日、何気に、国会中継を聞いていました。
岸田総理大臣の ” 失言をせぬように ” という慎重な答弁が印象に残りました。
野党の方は、実行責任はありませんから、言いたいことを言っている、ようにも聞こえます。
      今日もよい一日でありますように