11年に東北で激震を経験した子らもまた、いま別の形で当時の経験を反芻している。
震災で生き残った子供たちは、作家・くどうれいんによれば。

   その後「『希望のこども』としての役割を多少なりとも背負わなくちゃいけなかった」。
そしてそういうふうに「社会の期待」に気持ちを沿わせるせているうち、ひどく消耗していたことに気づき。

   大人になるなっていまそのことを反芻しだしている。
昨年公開された佐藤そのみ監督の映画「春をかさねて」もその一つといえるだろう。

   1・17,3・11と「記念日」が近づくと、「記憶の風化」ということが。
符牒を合わせたかのように語りだされる。

   けれども「記憶の風化」などということは断じてない。家族、有人、職場、故郷・・・。
絶対に代わりのきかないものを失った人にとって喪失の記憶は終生消えようがないし。

   また震災後に生まれた人にとってはそもそも記憶がないのだから風化もありえない。
「記憶の風化」は被災地の外の人の思い、それも自身における記憶の薄れへの呵責の表現でしかないと思う。

    ( 日経  文化 より 「記憶の仕分け」 )