今日は、前線が通過したので、冷たい空気が入ってきました。
水たまりが、昨夜の雨を物語っています。
いよいよ、紅葉も始まるのでしょうか、今年の夏は異常に暑かったですからねえ・・・。
今日は、私の住んでいるマンションで、インターホンを新しくするということで、説明会がありました。
説明会は、4回設定されていて、最後の会に出席しました。
パナソニックと日立の会社の人が、それぞれの部門で、説明されました。
マンションの外で、部屋番号を押すと、「なまえ」「要件」を聞かれ、姿も必ず、映されるようになっています。
そしてそれは、録画(100件分)される、とか、へーっ・・・すぐれモノです。
まあ、こういう集まりには、よくあることですが・・・。
「ちょっと、関係ない話」をする、ご夫婦が、いてました・・・。
そして、それを咎める、おじさんも・・・。
そのおじさんを、言われた夫婦は、睨んでいましたが・・・。
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1980年代半ば、大学を出た私は、すぐにプロ写真家にならず、まず会社勤めをはじめた。
父の背中を真近で見てきたので、自由業の厳しさが察せられたからである。
だが都市部がいわゆるバブル景気で湧く一方、この時期から地方のローカル線が次々姿を消していった。
会社の休日だけでは到底撮り切れないほど、全国で鉄道が見捨てられ始めた。
私は会社を辞め、写真一本でやって行くことに決めた。
棋界でも寡黙で通っていた父は、この一言を口にすると、私の決心を認めてくれた。
「この先どうなっても後悔さえしなきゃいい。人生は短いから、悔やんでいる暇などないぞ」。
プロ写真家になって以降も、私の作品への評価は相変わらずだった。
「地味な廃線の写真など売り物にはならない」と、出版界のお歴々からの批判も止まなかった。
友人の編集者が、いつか”廃線だけ”の本を出版しよう、と。
企画を立ててくれたが、なかなかGOサインは出なかった。
そんな折、父が体調を崩し、急逝した。もう現役を引退した後だったが。
昏睡状態の父に添っていた母は、こういって静かに微笑んでいた。
「この人は今、対局の夢を見ているのよ。しかも苦戦中だわ(笑)」
おそらく父は、人生を生き抜いた、などと達成感を覚える間もなく。
”苦闘の果てに突然、召されてしまったのであろう”そう私は思った。
が、出棺の折り、父はとても穏やかな表情をしていた。
父が去った後、廃線や廃墟に惹かれる人が徐々に増え、そういったものを撮る仕事も、少しずつ多くなった。
途切れた廃線の姿に”自身を重ねる”という感覚が、人々の間に少しずつ広まってきたのかもしれない。
( 日経 文化 より 「写真家と将棋棋士の父」 )
