「文芸書の翻訳出版というのは見た目の派手さと裏腹にうまみのある商売とはいいがたい。
だが「ジョーズ」や「ゴットファザー」のように映画化をきっかけにヒットすることもあり。

   他社も参入の機会をうかがっていた。
版権取得は早い者勝ちから条件競争が一般的になり、権利者に対して。

   より高いアドバンス(前払い金)を提示した者が勝つ。
老舗だからと権利を取れる時代ではもはやなかった。

   ある時社長だった父に呼ばれ「何が起きているんだ」と聞かれた。
条件面で負けているのだと思うと答えた。情けない気持ちだった。

   「無理はしないでおこう。
こちらが背伸びしても、他社はそれを上回る条件で取りに来るだろう。きりがない」。そう父は言った。

   「いいときはみんなそちらにわっと寄って行く。だめになるとまたわっといなくなる。
そういうもんだ。いい作家はほかにもいる。うちはこつこつやろうじゃないか」。

   我慢だと自分に言い聞かせたが、つらい時期だった。ディックだけではない。
秀逸なミステリを書いていたシドニィ・シェルドンも他社に取られた。

   翻訳ということについて早川書房とは大きく異なる考えをしている社で。
釈然としなかったがその思いをぐっと飲み込んだ。

          ( 日経  私の履歴書    より  早川 浩  早川書房社長  )