「ぼくは詩を読んでも共感できません。詩は遠回しにして書かれています。
ぼくはストレートに書かれたもののほうが好きです。

   なぜそのような面倒なことをする道を選んだのですか?」。
不定期に開催している短歌教室で中学1年生からいただいたこの質問が今でも胸に刺さっている」。

   授業をしてからもう1年ほど経つが、手を洗うために、キーボードを打つために。
靴くにを履くためにうつむくとき、胸から突き出たそれが目に入り、あの少年のまっすぐな眼差しを思い出す。

   けれど僕は目の前の林檎を剥かなければならないし、締め切り間近の原稿を送らなければならないし。
玄関のドアを開けて打ち合わせに出かけなければならない。

   だからとりあえず抜いてしまうのだけれど、いつのまにかまた胸に刺さっている。
前提として僕は詩人ではなく歌人であり、書いているものも詩ではなく短歌ではあるが。

   この質問は僕が授業で短歌について説明する数日前に生徒たちが送ってくれていたうちのひとつだ。
質問を書いた時点の彼にとっては詩も単価も同じに見えていたのだろう。

   僕も中学1年生の頃はそういうふうに捉えていたような気がする。
授業の終盤でいくつかの質問に返し終え、最後に彼の質問をスクリーンに投影し、僕はこう答えた。

   「遠回りしないと見えないもの、遠回りしないと見せられないものがあるから。
そのような面倒な道を選んだのかもしれません。

   人生の始まりから終わりまで、まっすぐに歩ける人はおそらくほとんどいません。
どこかで思い悩んだり、どこかで挫折したりする。そんなときにその人に寄り添ったり、励ましたり。

   黙って隣にいるために、まっすぐではない詩や短歌の表現があるのだと思います」と。

           ( 日経  文化より  「面倒なことする道」 )