その書類は難解だったが、意味はわかった。
「それに印鑑ば押せば、裁判も何もできん」。
水俣病をめぐり政府は1969年、患者側に。
「第三者機関の補償審査の結論に異議なく従う」旨の確約書を出すように迫った。
これで問題を終わらせる。国の意図は明らかだった。

  納得しない患者らは提訴を選ぶ。水俣病訴訟第1陣である。
「判決が100円でも、自分で決めたことで、よかがな」。
原告だった坂本フジエさんが、医師の原田正純さんとの対談で当時を振り返っている(「原田正純の遺言」)。
行政による拙速な幕引きの試みが、問題を逆に長引かせる。
その繰り返しが水俣病だった。
             (  日経  春秋より  )