このころの藤田と国吉の接点を裏付ける資料の存在が本展の準備中に明らかになった。
一時帰国後にパリへ戻った30年、ニューヨークで個展を開いた藤田の歓迎会で。

   藤田、国吉らが手掛けた色紙だ。国吉が得意の雌牛を、藤田が即興的に暖簾を描いている。
その後の2人が和やかな交流を再び持つことはなかった。

   戦争前夜の30年代から戦時をとりあげるセクションは、本展でもとりわけ目を引く。
恐慌で経済的苦境に陥った藤田はパリを離れ、南米などを経て33年、日本に帰国。

  異国情緒あふれるカラフルな絵はモノクロームに近い色調の丸刈り頭の自画像や戦争画にとって代わった。
国吉は30年代以降、左翼的で知られる「アメリカ美術会議」の要職に就き。

   「戦争とファシズム」に抗して」展などを企画。
短波放送を通じて日本国民に停戦を呼びかける活動にもかかわっている。

   「跳び上がろうとする頭のない馬」に描き込まれた英字は国義が米軍に協力したポスターで。
「We  Fight   To   Build    A   Free     Warld   」 の文字の一部という。

   荒涼とした土地に取り残され、何者かに必死に抗うかのような馬は。
異国で敵性外国人になった自身の姿かもしれない。

   会場で反響し合う2人の作品に向き合うと。
絵画とはつまるところ人間の生き方の産物なのだと思わされる。

       (  日経  文化 より  「藤田嗣治×国吉康雄 二人のパラレル・キャリア」展  )