今日もいい天気になりました。
朝走っていて、ほんの少しだけ、昨日よりは、気温が高ように感じました。
大川(旧淀川)沿いの、桜の葉も、8~9割方落ちてしまいました。
今日は、12月8日、昭和16年に日本が、「真珠湾」を攻撃した日に当たります。
今、ウクライナにロシア軍が侵略戦争をしています。
国際社会から、「経済制裁」を受けているのは、当時の日本と同じです。
ロシア国内にも「反戦」を言い出せないものがあるのでしょう。
” 多様なものを受け入れる社会 ” が言われていますが、どうなんでしょう。
習近平の「台湾併合」は現実味を帯びてきましたし。
21世紀になっても、20世紀と変わらないことをやっているような気もします。
兵器が、サイバーであったり、ドローンであったり、進化はしましたが、人の心は?
平和の尊さを、よくよく考えねばいけません。
竹内好
「うしろめたさ払拭された」
37年に始まった日中戦争は、国民の間で不人気だった。
戦争目的がよく分からないまま100万人に及ぶ兵士が動員され、死傷者と遺族が増えていったからだ。
中国文学者・評論家の竹内好(10〜77)は真珠湾攻撃直後の日に。
<支那事変(注・日中戦争)に何か気まずい、うしろめたい気持ちがあったのも今度は払拭された>とし。
新たに始まった戦争を<民族解放の戦争に導くのが我々の責務である>と記した(12月11日)。
日本人は12月8日の開戦によって、アジアを欧米の植民地支配から解放するという大義名分を得たのだ。
小林秀雄
「晴れ晴れとした爽快さ」
評論家の小林秀雄(02〜83)は開戦の日、文芸春秋社で「宣戦詔勅」奉読放送を直立して聞いた。
<眼頭は熱し、心は静かであった。畏(おそれ)多い事ながら、僕は拝聴していて。
比類のない美しさを感じた>。さらに海軍の戦果を「名人の至藝」とたたえた(『現地報告』42年1月)。
こぞって開戦支持 日記にも「反戦」書けず
多くの文筆家が開戦に快哉(かいさい)を叫んだ。作家の坂口安吾(06〜55)も、報道に感激している。
当時は新聞も、戦争に突き進む政府や軍を支持していた。
また言論が統制される中、職業作家や評論家が「反戦」を表だって主張することは難しかった。
高澤さんは「そうしなければ生活できなかった。現時点で彼らを無条件に批判しても意味がない」という。
また、民衆も開戦を支持。
日本は、中国との戦争やアメリカによる経済制裁などによる重圧感にあえいでいた。
当時11歳だった作家の半藤一利さんは、開戦によって。
<晴れ晴れとした爽快さのなかに、ほとんどの日本人はあった>(『〔真珠湾〕の日』)と振り返る。
日記にさえ「反戦」を記すことは難しかった。
昭和史が専門の作家、保坂康正さんは「そういうことを書きそうな人間は。
いつ特高(特別高等警察)に踏み込まれるか分からないから用心する必要があった」と指摘する。
( 毎日新聞 日米開戦から70年 作家ら運命12・8 作家らはどう記したか より )
漫才コンビ「西川のりお・上方よしお」の西川のりお(71)が4日。
都内で、全国ツアー「のりおよしお主義~漫才師の主張~」の取材会を行った。
若手をゲストに迎えて回るツアーで、18年から行ってきた。
のりおは「若い漫才師には味がない。
いっぺん売れて、仕事が減ってきて、いろいろ達観してから味が出てくる」と話した。
「芸人というのは嫌な思いをしても、砂をかむ思いをして踏みつけられても。
その世界に残っているのが芸人」とし。
「芸人の地位が上がったことを取り違えてないでほしい」と、苦言を呈した。
22年度ツアーの千秋楽は1月29日の東京・八王子公演。とろサーモン、霜降り明星らが出演する。
霜降り明星について、のりおは「最近仕事も減ってるみたい。でも仕事が減りかけたころがおもしろい。
完全にレギュラーがゼロになった時がおもしろくなる。その時、どんな姿を見せてくれるか」とニヤリとし。
とろサーモンについては「芸人に近いんですが、漫才師に必要な瞬発力がない。
堂安(律)のシュートやないけど」と、サッカーを引き合いに厳しいエールを送った
また、「M-1反対論者です」ときっぱり。のりおは「漫才は勝った負けたじゃない。
競技じゃないし、1回勝負のものでもない。仕事があって長くやったやつが勝ち。
きれいごと抜きに、食べていける漫才師になってくれ、それこそ『プロの漫才師』だと言いたい」と語った。
( 日刊スポーツより )