これだけでは何故京都か、もう一つ説得力に欠ける。
それには、父宗広が深く関わっていたのである。

  先述したように、小次郎が江戸から父の『大勢三転考』の町出版を知らせたあと。
宗広は、田辺幽閉中に書き留めた詩文を『余身帰』と題して私刻本として上梓し。
それを京・大阪の友人知人に贈呈したが、この書を手にして甚く感銘を受けた人物に、中川朝彦親王がいた。

  中川宮は、わざわざ江戸の「小宮山」から『大勢三転考』を取り寄せ、読了後、直ちに宗広に書状を送った。

  事情が許すなら、是非上京されて、歌学、仏典などを講じていただきたい。
住まいは当方で用意する、という内容である。

  宗広はこの年六十一歳の還暦を迎え、「楽しきも憂きのかぎりも見つくして昔にかへる春はきにけり」と。
詠んで、和歌山城外大田の竹林で生涯を終えるつもりだったが。
都の堂上公卿の最上位に立つ中川宮の勧誘に心が騒いだ。
       (  日経  陸奥宗光の青春 より )