だらだら運動していると、まわりの世界と私の境界がぼやけて、ボーっとできる。
この醍醐味のおかげで、私は運動習慣病になれたのだろう。

     緑のなかで運動していると、狭い心が、ちょっと広くなる。それだけではない。
机に向かっているときよりも、必要な記憶が整理され。

   脳がフレッシュ働く(デフォルト・モード・ネットワーク)。脳トレより筋トレですね。
自伝『この人を見よ』でニーチェいわく。「すわっていることは、できるだけ少なくせよ。

   戸外で自由に運動しながら生まれたのではないような思想。
筋肉も祭りに参加していないような思想など、信用するな。すべての偏見は内臓からやってくる」。

   「体は大きな理性、精神は小さな理性」と考えたニーチェは。
キリスト教のパロディ「体の聖書」を書いた。『ツァラトゥストラ』だ。

   ひらめいたのは、スイスの湖のほとりの森を散歩していて。
ピラミッドのようにそびえている大きな岩のそばで立ち止まったとき。

   ツァラトゥストラはニーチェがつくったのではない。「ツァラトゥストラその人が私を襲ったのだ」。
思想が来るのは思想が望んだときであって、私が望んだときではない。

   病気で家畜のようになっている人間を健康にするにはどうしたらいいか。ニーチェは考えた。
「魂」「精神」が発明されたのは、体を軽蔑するため。

   「天国」や「真の世界」がでっち上げられたのは、「今ここ」を無価値にするため。
「人生で真剣に考えるべきすべてのこと、つまり栄養、住居、精神のダイエット、病気の治療。

   清潔、天気の問題を、身の毛もよだつほど軽率に扱わせるためである!」。
NowhereからNow Here   へ。この交通整理をするためにニーチェは旗をふりつつづけた。

 中年になって体を動かす喜びに目覚めて、ようやく私はニーチェと波長が合うようになり、親友になった。

       (  日経  文化 より 「四股もどき」 )