「あれほど有名だったのになぜ作品が出てこないのか不思議だった」。
岡山県立美術館(岡山市)に見せに行くと驚かれた。

   同館で展示されると「うちにもある」と名乗り出る人が続出した。
岡山と広島を中心に50軒はお邪魔しただろうか。

   理想郷としての山水画、色鮮やか草花図、水墨画の力強いソテツ。
岡山に移った華涯さんが描いた様々な美があった。

   何度も引越しした華涯さんだが、段ボール30箱もの文書を残していた。
その中の手紙の束には跡見学園の開祖、跡見花蹊のからのものもあった。

   地元の学校に華涯さんはなじめず、父が新しくできた跡見学園に送り出した。
そこで華涯さんは花蹊に直接絵の手ほどきを受けた。

   その後、画家になる決意をした50代の転機に花蹊から送られた「有香」の額も大事に残されていた。
「当時の最高の3人の先生に付いている」。文書を読んだ京都国立博物館の専門家も驚いた。

   花蹊、滝和亭、森琴石に学んだ、文人画の超正統派だった。
コイの絵の画賛に、「天高く上るよりもいつもの池で心地よく過ごしたい」と書く。

   おちゃめな曽祖母は、想像よりもだいぶ「偉い人」だった。

       (  日経  文化 より 「総祖母は文人画家、生涯を追う」 )