しかし、この間、めいの病気は進んだ。目が不自由になり、人工呼吸器も装着。
家族と本人の希望で自宅に戻り、08年3月、11才で息を引き取った。

  「美也おばちゃん、いいお医者さんになってね」の言葉を残して。
悲しむ間もなく4月、故郷の五島中央病院の内科医として赴任した。

   人口7万人の島の医療の最後のとりでには、昼夜の別なく患者が訪れる。
月に3度の当直は連続40時間の勤務。気になる患者のベットのそばには5分といられなかった。

   「自分の目指す医療はこれなのか」。自問するうち、医師への道を後押ししためいの日々がよぎった。
病気になった当社、家族らは「なんでこの子だけ」と嘆き、「病気を見つけられなかった」と我が身を責めた。

   しかし、医師らの努力に「この子は幸せだ」。
亡くなる前後には「こんなに周囲を成長させた子はいない」とうなずきあった。

   「不治の病で死の影が迫る患者でも、周囲に何かを与えられる。
自分もベットサイドで患者と家族の思いの深まりを照らす灯火でありたい。

   09年正月、栄光病院を訪ねた。
患者と接するとき、中尾は「医師としての役割は3割、7割は友」と心がける。

   死への不安や恐れからかたくなだった患者が、死と対峙し、静かに受け入れていく。
時に「ありがとう」と笑って生を締めくくる患者に触れ。

   人間の勇気、優しさ、そして尊厳が、中尾の胸に刻まれる。ずっと生きているかのように。

   ( 日経  社会人 より 「不惑 私が医者になる」 )