1991年、日本のサッカー界は世界に大きく取り残されていた。
ブラジルの超一流選手だったジーコ氏が日本の社会人チーム住友金属工業(現鹿島アントラーズ)に。
やってきたときは、地の果てに神様が降り立ったように見えたものだ。

  神様は華麗なプレーを見せてくれたが、同時に指導者として日本選手に真剣に接した。
「大事なのはボールを止めることと蹴ることだ」という”指導方針”の下に。
未熟な日本選手をばかにせず根気強く練習につき合った。
やがて設立されたリーグには何人もの一流選手外国人選手が来ては去って行ったが。
ジーコは日本のサッカーを見続けてきた。

  それは決して心地よい経験ではなかったはずだ。
代表監督になってからは、未完成のチームが苦戦しただけで。
「ジーコ辞めろ」と叫ぶファンのデモが行われた。

評論家を自称する関係者は、やれ1トップだ、やれ4バックだと。
ジーコ采配の戦術批判をして、責任を追及した。
むしろ外国人嫌いの日本の本音を見せつけられる思いがしたほどだ。

  しかし、教え子たちである選手たちは違った。
予選突破を決めた北朝鮮戦の後も中田英寿選手は「まだ学ぶことはたくさんある」と言っていた。
謙虚さは人間をたくましくすることを、彼らの姿は語っていた。
  (  サッカー日本代表が「W杯ドイツ大会」を決めた時の記事 より )