86年にはガンから復帰して中原誠名人(当時)に挑戦した。
タイトル奪取はならずも七番勝負で1勝をあげた。
酒もたばこも絶っていたが、中原さんに久しぶりに勝てたのがよほどうれしかったのか。
この時ばかりは寿司屋で一杯飲んだ。

  91年、ガンが再発し「今度はひょっとすると死ぬかもしれん」と電話があった。
差後の1か月は毎週、東京へ見舞った。
「早く種をまかなぁいかん」と寝言を聞いた。
おそらく将棋の話だ。
まだ普及が足りないrと思っていたのだろう。

  亡くなった翌年に記念館が開館する。
生前には将棋教室を開いてほしいと要望していた。
先日、藤井聡太七冠とタイトル戦で熱戦を演じた菅井竜也八段はここの教室で育った。
いま彼は、無償で講師を引き受けてくれている。
2022年には大山以来となる倉敷出身の棋士も誕生した。
その狩山幹生四段もよく遊びにきた。
  (  日経 文化  「地元秘書」が見た大山康晴 より  )