日体大でプレーし、いずれ高校の監督になって甲子園を目指そう、と。
意気込んでいた教諭の最初の配属は府中養護学校。
硬式野球部はなかった。
希望が持てず、他の高校への転勤願いを出そうとしていたところに、天気となる出来事が起こった。
ある生徒が「先生、キャッチボール教えてよ」。

  最初は全く形になっていなかった。
無理じゃないか、と口から出かかるのをこらえて、投げ方を教えた。
するとどうだろう。
面白いように距離が伸び、その日のうちに30ⅿまでに。
生徒の顔が、誇らしげに輝いていた。

  みんなきちんと教わっていねいだけで、やればできると確信した久保田教諭は。
赴任先のソフトボール部を有数の強豪にしつつ、硬式野球への参戦機会をうかがってきた。

  知的障害者に野球は無理、危ないとの先入観に「硬式野球の前例がない」という学校側の姿勢。
壁は厚く、野球部創設を訴えては却下され、の繰り返し。
それでもめげず、事故防止に配慮した練習計画を何枚ものリポート用紙にまとめて訴え続けた。
熱意を理解する校長が現れ、創部、高野連加盟とことが運んだのも、諦めず、粘り抜いたからこそ。
(  日経 逆風順風 より )