今日も、曇ったり晴れたりのようです。
日曜日から、気温が下がり、本格的に、飽きになっていくみたい。
暖房機の、準備をしてくださいと、予報では言っていました。
アルバイト先で、6月から、体調を崩して、休んでいる、Sさん。
その後、内臓の手術をして、10月には復帰する、と伝えられていましたが・・・。
最近、Sさんから、親しい人に、電話があったようです。
「すい臓がんで、胃や肝臓などにも転移していて、手術もできない」だったとのこと。
これでは、「死刑宣告」を、受けたようなものです。
「がんの死」のほうが、「ポックリ死ぬ」よりも、生前の整理ができていい、という見方もありますが。
Sさん・72才、まあ、早いと言えば早い、私のオヤジも、73才で、肝臓がんで、逝っています。
身近な人が、「死に直面する」と、いろいろ考えてしまいます。
「なんで、がんになったのか?」「酒やたばこを止められなかったのか?」
「今まで、健康に注意をした、生き方をしてこなかったのか?」「健康でも、事件や事故で死ぬ人も」
「2人に1人が、がんで死ぬ」と、保険会社が、喧伝していますか・・・。
そうはいっても、「死ぬのは運命」のような気もします。
「どんなに気を付けていても、がんになる人はいる」し。
「どんな人でも、体内で、がん細胞は毎日生まれて、消滅を繰り返している」。
私は、「これは運命」なんだろうなあ、と思います。
がんになる人もいれば、ならない人も、事故で亡くなる人もいれば、そうでない人も・・・。
Sさんのことを聞いて、ちょっと重い気分です。
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母は昔から、家計簿の余白にちょこちょこと書き込んだりする人ではあった。
「多江子、11時半に帰宅」なんて文字を見つけて、ぞっとしたこともある。私が大学生の頃のことだ。
「叙事とは、事柄をありのまま述べつづること」、と国語辞典にはある。
この中国旅行の写真アルバムは母の「叙事」が占めていて。
娘と一緒に旅ができたて社幸せだ、なんて表現はひとかけらもない。
でも淡々とした記録のおかげで、私は現地のおじさんに親切にされたことを思い起こすことができた。
そうだ、叙事は思いを呼び起こす。
読み返すたびに、叙事は読み手の心のなかで叙情に変換されるのだ。
( 日経 文化 より 「それは献立ノートに始まり・・・」)