1980年代半ば、大学を出た私は、すぐにプロ写真家にならず、まず会社勤めをはじめた。
父の背中を真近で見てきたので、自由業の厳しさが察せられたからである。

   だが都市部がいわゆるバブル景気で湧く一方、この時期から地方のローカル線が次々姿を消していった。
会社の休日だけでは到底撮り切れないほど、全国で鉄道が見捨てられ始めた。

   私は会社を辞め、写真一本でやって行くことに決めた。
棋界でも寡黙で通っていた父は、この一言を口にすると、私の決心を認めてくれた。

   「この先どうなっても後悔さえしなきゃいい。人生は短いから、悔やんでいる暇などないぞ」。
プロ写真家になって以降も、私の作品への評価は相変わらずだった。

   「地味な廃線の写真など売り物にはならない」と、出版界のお歴々からの批判も止まなかった。
友人の編集者が、いつか”廃線だけ”の本を出版しよう、と。

   企画を立ててくれたが、なかなかGOサインは出なかった。
そんな折、父が体調を崩し、急逝した。もう現役を引退した後だったが。

   昏睡状態の父に添っていた母は、こういって静かに微笑んでいた。
「この人は今、対局の夢を見ているのよ。しかも苦戦中だわ(笑)」

   おそらく父は、人生を生き抜いた、などと達成感を覚える間もなく。
”苦闘の果てに突然、召されてしまったのであろう”そう私は思った。

   が、出棺の折り、父はとても穏やかな表情をしていた。
父が去った後、廃線や廃墟に惹かれる人が徐々に増え、そういったものを撮る仕事も、少しずつ多くなった。

   途切れた廃線の姿に”自身を重ねる”という感覚が、人々の間に少しずつ広まってきたのかもしれない。

       ( 日経  文化 より  「写真家と将棋棋士の父」 )