東北や北海道に大雨を降らせた前線が南下して、秋雨前線になるようです。
人の心も、秋の空も、変わりやすい季節です。
「私のような子」、「でも」?「だから」?
「高校での成績はビリ。大学受験をする気は全くなかったが。
弟の代わりに行った塾の面談で出会った坪田信貴先生に『君が慶応に受かったら面白いよ』と勧められた。
その気になり、1日15時間の猛勉強を続けたら道が開けた」
「本当の学びが始まるのは大学に入ってた後なので。
大学受験さえ乗り越えれば大丈夫だという発想は危険。
私のような子でも1年半、一生懸命勉強することで目指す大学に入ることができた。
新たな出会いにつながり、世界が変わった。受験は逆転の大チャンスであるべきだと思う」
( 日経 漂流する入試 より )
いやいやいや、だれでも、「1日15時間」は、難しいですね。
「私のような子でも」ではなく、「私のような子だから」できたのであって、鵜呑みは危険です。
考えるに、だれでも「これだったら長続きする、時間も忘れる」というものを見つける。
無かったら、いろいろ、試してみる。
スポーツ、マンガを描くこと、ゲームをすること、音楽をすること・・・なんでもいいんです。
夢中になって、時間も忘れるようなこと、をやり続ける。
それが、人生の成功につながるような気がします。
ドイツだとヘレン・ケラーは「障がい者の福祉制度に貢献した人」として知られています。
でも日本ではヘレン・ケラー本人のがんばりにスポットが当たっている気がします。
彼女が多くの努力を重ねたのは事実ですが。
それが努力をすればどんな困難でも克服できるという文脈で語り継がれていることは疑問に思います。
自分ががんばることは大事なことです。
でも全員にがんばることを求めてはいけません。
たとえば、ヘレン・ケラーと同じ障がいを持っていても。
同じような努力ができない人もいます。
また、努力をしても同じ結果にならない人もいます。
障がい者を励ます時にヘレン・ケラーを出してはいけない。
ドイツでヘレン・ケラーが「障がい者の福祉制度に貢献した人」。
として知られているのには理由があります。
彼女はアメリカの裕福な白人家庭の出身でした。
だから両親はサリバン先生という家庭教師を雇うことができました。
けれど、もしもヘレン・ケラーが黒人の貧困家庭出身だったら。
家庭教師を雇うことはできなかったでしょう。
努力をする機会さえ与えられなかった可能性が高いのです。
だからこそ、障がい者全員に助けがゆきわたるよう。
欧米では、ヘレン・ケラーの話は福祉にスポットを当てて語られるのです。
障がいのある人が悩んでいるとき。
健常者が「でもヘレン・ケラーは」と言って励まそうとすることは避けるべきです。
「やれば、できる」は自分自身を奮い立たせるために。
自分自身にハッパをかけるために使うのはいいけれど。
自分とは立場が違う人や、悩んでいる人に対して言ってしまうと相手を追い詰めることになりかねません。
———- サンドラ・ヘフェリン(さんどら・へふぇりん) 著述家・コラムニスト ドイツ・ミュンヘン出身。
大谷選手が今後、どの球団に行くのか、残るのかは誰もが注目するところです。
大谷選手にとって、良い環境でプレーしてほしいですね。