悪天候のなか、夜間も登り続けた翌日。
濃霧が消え、北壁にも光がわずかに差し込んできた。岩棚で休息。

  「人間は、一筋の陽光にも幸せを感じるものなんだな・・・」
クーチャン(久保進)がつぶやいた。

  通常の登はんなら「何ロマンチック気取ってんだよ」などと皆が彼をからかうところだが。
この時ばかりは「うん」の一言の後は黙してうなずいた。

  アイガーの北壁は、眺めがいい。光がさんさんと当たった牧場。
さらにカウベルの音、アルプホルン、登山列車の音が上昇気流に乗って登ってくる。音も豊か。
通常、見上げる北壁の中から、逆に下を見る。それができるのが楽しい。

    ( 日経  私の履歴書 より  今井通子  登山家 )