日の出が早くなり、日没が遅くなりました。
もうすぐ、いろいろな春の花が、咲いて来る楽しみがあります。
車いすテニス男子の第一人者、国枝慎吾さんが引退しました。
「04年アテネ・パラではダブルスで優勝したものの、『新聞のスポーツ欄には乗らなかった』。
パラが共生社会実現のためのものであることは理解しつつ。
『スポーツとして感動を与えるものでないと、そこにはつながらない』として。
福祉ではなく、あくまでスポーツとして見る人が興奮するようなプレーを目指した。
その意味で、東京パラ時の国内の反応はスポーツとしての手応えがあった」。
口先だけの「共生社会」や「多様性うんぬん」が、叫ばれていますが。
彼は、その扉を実力で開いた、人として賞賛されるべきですね。
「道端にきれいな花を見つけた」「コンビニで当たりくじを引いた」「雨が降り出す前に帰宅できた」。
帳面を用意し、そんな「幸せ」をせっせと書き留めたのだ。
そのたび、「ほら、私にもいいことがたくさんあるじゃない」と自己暗示を掛けた。
が、日が経つにつれ、自分を励ますためにはじめたこの所業が、次第にしんどくなってきたのだ。
インスタなどでこまめに幸せアピールしている人たちは、こんな艱難辛苦に日々耐えているのか、と愕然とした。嗚呼、帳面を開く手が重い。
そのときだ。悪魔がささやいたのである。
「こんなもんは、幸せとは言わん」
痛いところを突かれたが、これまでの苦行が無に帰すのもしゃくだから。
「幸せに大小はない」と大見得を切って言い返した。
「確かに大小はない。が問題は、お前がそこに幸せを感じていないことだ。
世間の間尺に合わせて、幸せっぽいことを並べているだけではないか」
図星を指されて息を呑んだ時、天から声が降ってきた。
ちょっと待って、そもそも、幸せである必要ってある?
「目前心後」とは、世阿弥が「花鏡」に記した。
「目を前に見て、心を後に置け」という毎の心得である。
これは、主観で世の中をに対峙しつつも、客観的に自分を含めた総体を診。
という生きる上で不可欠な構えにも感じられる。
( 日経 文化面より 木内 昇 )