日羅(にちら)公之碑

生活

  今日もいい天気になりました
ちょっと気温は低めですが、行楽日和です。
  このまま、コロナも収束してくれたらよいのですが・・・。

   ランニングコースと風景 ③/3

 ⑦ 「日羅公」は、欽明・敏達天皇のに仕え、百済の国王をたすけて朝鮮問題につくした政治家。      召還命令によって帰国した日羅は、まず国内を治めてから外国にあたるべきだと進言。
  ところが、随行の百済人に、二重スパイの疑いをかけられ、難波の宿館で暗殺せられたようです。
 80歳にもなる日羅を、敏達天皇が召還した理由は牧村史陽氏の『四天王寺』に。
「日羅は肥前(※正しくは肥後)葦北の国造阿利斯登(ありしと)の子で、宣化天皇2年(537)百済に渡り。
そのままとどまって百済をたすけ達率(たちそち・正二品)という位にまでのぼったが。
任那が滅亡したのち、たきの敏達天皇は、わが国の朝鮮に対する政策と、任那の復興につき。
現地の事情を聴取するため、使いを出してこれを召還せられた」と。
 年に一度、神主やら関係者が、この日の前で儀式をしているところを見かけます。

  ⑧ 日羅公之碑の近くに、「源八渡し跡」という碑があります。
 江戸時代元禄末(1700ころ)、すでに存在していた記録が残っているそうです。名の由来は不詳。
   大川(旧淀川)の左岸・都島側は農村で京街道にも近く。
 右岸は天満組で大坂城代配下の与力などの役宅が並んでいたとか。
 桜の名所があることから大へん賑わっていて、上流の「平田の渡し」と共に有名であったそう。
   昭和11年6月架橋され、それによって渡しの使命は終ったが、橋名が源八橋に。

  ⑨ 昔、堂島の米取引所があった近くに、「天満の子守歌の碑」があります。
子を背負った女の子像と、子守歌が刻まれた石碑が、佇んでいます。

   心に残ることば    May ③
    ” 日本のサッカーを日本化する ”
  06年ドイツW杯で一敗地にまみれた日本代表の再建役を託されたのは、自然な成り行きだった。
その就任会見でオシムさんは「日本のサッカーを日本化する」という印象的な抱負を述べた。
市原での監督経験を土台に、日本サッカーの可能性について感じることが多々あったことは確かで。
自分ならもっとその良さを引き出せるという明確なビジョンと自信があっての言葉だった。
  代表監督在任中の取材で、オシムさんは「未来を予測することは、あらゆる職業において。
一番難しいことではあるが、今、使える選手ではなく、あす使える選手を見抜き。
5年先を見すえて育てることが大事だ」と語っていた。
( 日経  スポーツ欄 より )
   生活雑感  May   ③
今日は憲法記念日です、憲法論議はいろいろとありますが・・・。
” こちらが武力行使しなければ、相手は攻めてこない ” という考えは、難しいかも。
  
   今日もよい一日でありますように 
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