男の子の一位が『会社員』、女の子の一位が『パテシエ』。
現実的と言うか、世相を反映しているというか、どうなんでしょう?
昔は、プロ野球選手、というのがあったと思いますが、今は巨人戦も放映されなくなってきましたからね。
吉野彰さんや田中耕一さんのように、会社員でありながら、ノーベル賞もとってしまう。
そんな、会社員生活って、すばらしいものです。
「天職」ではなくて「転職」で、そこそこ仕事はこなしてきましたが、解雇されたらどうしよう?
とか、定年になってもできる仕事を身に着けておきたい、を常に考えてきました。
20代の頃は、医学部に行こうとか、それに諦めがつくと、司法試験に挑戦したりしました。
医者にも弁護士にもなれず、60歳もあっという間に、過ぎてしまいました。
” 一生涯できる仕事をしながら、過ごしたい ” はあえなく、夢になってしまいました。
「夢見る夢男くん」だったようです。
” 医者は開業医でないと、結局、肉体労働者と同じだし、平均寿命も短い ”
” 弁護士は司法試験合格・修習が終わって、なったとしても営業力が必要だし ”
” 一生懸命、仕事をしていれば、仕事の方が向いてくる ” 、そういうもんだと。
最後のステージで大切なのは、「今まで何をしてきたか」よりも、「今、健康であること」。
そんなことを考える日々です。
のれんを下ろした店内で、内藤さんに心境を尋ねた。
ためらうことなく、「ほっとしました」との答えが返ってきた。
「涛々」は長年、家族ぐるみのつきあいがある老舗「鍵善良房」(東山区)に引き継いでもらうという。
「菓子が残るのが何よりです」とかみしめるように話した。
店が試練を迎えたのは2000年6月。内藤さんが心筋梗塞になり。
命はとりとめたものの、心臓に後遺症を抱えた。
店では、大学院を卒業した次女の彩さんが数年前から働き始めていた。
口には出さなくても、後を継ぐつもりなのだと感じていた。
「娘に伝えられることはすべて伝えたい」。
そんな思いが力になったのか、内藤さんは奇跡的に回復し。
以前のように菓子作りができるまでになったという。
ところが06年4月、彩さんは突然、くも膜下出血で倒れた。
すぐに病院に運ばれたものの、医師からは脳死と告げられた。
家族で相談し、延命措置は選択しなかったという。31歳だった。
閉店を決めたのは昨年の夏ごろ。
70歳を過ぎた頃から、内藤さんは後遺症もあって体力の衰えを感じるようになった。
「もうやめよう」と何度も思ったが、茶道家元の菓子を任されているという責任感があった。
20年近く店に勤める職人に託すことも考えたが。
先祖代々の人間関係で成り立っている世界で、実現しなかった。
75歳を前に、ますます体がつらくなり、決断した。
同店によると、武者小路千家の歴代家元は江戸時代、高松藩主松平家に茶道指南をしていた。
香川には干し柿のようかんをふ焼き煎餅で挟んだ銘菓「木守(きまもり)」がある。
大徳寺納豆は千利休の墓がある大徳寺(京都市北区)門前で室町時代から作られており。
「家元は木守を京都風にアレンジしようと考え、涛々が完成したのでは」と。
京華堂利保2代目の孫で4代目主人の内藤正さん(74)は推測する。
大徳寺納豆は、豆と塩をたるで熟成させ、天日干しした発酵食品だ。
においも塩分も強く、主菓子に使うのは一般的には難しいという。
「あんと大徳寺納豆との絶妙の配合を探るのに、祖父は苦労しただろう」。
内藤さんは、涛々のあんで上生菓子や薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)を作ろうと何度も試みたという。
しかし納得できる味は完成しなかった。
「ふ焼き煎餅で挟むからこそ、あの独特のあんが生きるんやとよう分かりました。
本当に良くできた菓子ですわ」
( まいどなニュース/京都新聞 より )
暑くても、当分マスクは、必需品になりますね。